「論理思考」カテゴリーアーカイブ

論理だけじゃなく感情に目を向けるべき」という本当の意味

きのうの授業で学生から出た「今のワークでの気付き」の中に、「論理だけじゃなく感情に目を向けるべき」というのがありました。その背景は次のような感じでした。

班のメンバーが考えて来たプロジェクト案を読んで「こうしたら?」と提案をしたのだけど、どうもしっくりいないみたいだった。そこで「何をしたいのか」をもう少し探る質問をしてみたら、プロジェクト案に書いてあったこととはちょっと違うものが見えて来た。それはただ言っている内容だけじゃなく、その時の表情とかから分かってきた。

この気付きはとても良いと思います。ただ、それは「論理だけじゃなく感情に目を向けるべき」というよりも、もっと適切な言い方があるな、とも思いました。例えば、

「言葉をうのみにしてはいけない」とか
「人は思っていることを表現できているとは限らない」
「言葉は人の思っていることのヒントに過ぎない」とか。

↑こういうことを言うと、「だから論理屋は嫌いなんだよ」とも言われそうですが笑、あえて言っておきたいのには理由があります。まずこの話を「論理の限界」の話にしてしまうと、状況がこじれた時は「考えるのを放棄する」ようになってしまう危険を感じるからです。

次に、「言葉は人の思っていることのヒントに過ぎない」と考えれば、そのヒントをとっかかりに本当のところを探っていくことができるからです(この学生がやってみたように)。

ま、論理屋の言葉に対するこだわり、という面もあるんですが。笑

「勝って兜の緒を締めよ」って言うけど、その前にやった方がいいことがある

何かの研究に裏付けられているのかは調べていませんが、自分の経験や周りを見ていると思うところです。その前にやった方がいいこととは、

うれしさをかみしめる
自分(たち)の良かったことを確認する

ことです。なぜこれをしっかりやった方が良いかというと、一つには次へのエネルギーにつながるからです。うれしいことがあると人は元気になるのはもちろん、あのうれしさをもう一度味わいたいとしっかり思えることが、次なる挑戦に向かおうと思わせてくれたり、次のしんどい局面での力になります。

そして、「自分は、やれる」という感覚を持てることもあります。この感覚は自分から動き出せるようになる上でとても大事です。さらに実際に「やれる」ためのノウハウがちゃんと蓄積されることもあります。ただ「がんばったから」で終わらせず「でも、何が良かったのか」と考える、それでも見つからなければ「どうしてがんばれたのか」をノウハウとしたら良いと思います。

「でも、トップを目指す人は『そんな喜んでいる暇はない』とすぐ切り替えて次を目指すのでは?」という反論があるかもしれません。確かにそういう人も見ます。ただ、普通の人がこれをやると、だんだん疲れてしまったり、楽しくなくなってしまうと思うのです。本人ばかりか周りの人まで楽しくなくなってきます。それではなかなか人は巻き込めません。

また、「兜の緒を締める」ことばかり意識して育ってきた/育てられてきた人は、優秀なのに自分に自信がないのをよく見ます。「95点! あと5点が取れない自分はダメだ」という感じで自信がなくなり、取れなかった5点に注目ばかりしているので、自分の優れている点もあまりよく見えていません。そのせいか、とても優秀なのに、就活でも苦戦していたりします。

今日はちょうどSACAたちが先日の高校生BL1の振り返りをやっていたので、上のような話を少ししました。出来なかったことや気になったことはメモに残して後で使えるようにさえしておけば良いから、今日はそんな話をするよりもまず、どううれしかったとか、何が良かったのかを思い切り振り返ろうと。今、やり通して見えたことは何かを考えてみよう。あとは「次はどんなことができたらいいな!」と思うか「夢」を話そう、と。

それでも反省点をけっこう話していた人達もいましたが。笑

良い目標は「見えている景色を変えてしまう」その2

チームで何かをやっていると、人によってやる気に差が出てしまう、というのはありがちです。そんな時にも良い目標があると役立ちます。
 
それは「みんなが『それいいね!』と感じるようなエキサイティングな目標を設定する」ことと思われがちですが、実はもっと広く使える手があります。事例で見てみます。
 
先日ご案内した「立教経営学部1day Passport」(経営学部1年生360名が授業で学んだことを教えてしまうオープンキャンパス)、今でこそ2ヶ月前に定員の400名に達してしまうようになりました。でも、初めて行った2013年度には申込者がようやく1班に1人いる程度くらい少なすぎて、大学生が高校生役にまわらなければならない事態になりました。
 
しかしそれではせっかく高校生に教えようとがんばってきた受講生たち(大学生)のモチベーションがだだ下がりになってしまうとSAたちは心配していました。そこで次のように話そうと考えました。
 
「きみたちの役割はものすごく重要だ。参加する高校生達がリラックスして取り組めるように、きみらが行く班の大学生たちが本気で授業をできるようにするには、きみらの役割が欠かせない。つまりきみらはチームから外れるのではなく、より大きなチームの中で、共通の目標に向かっていく仲間だ。
 この初年度うまく行ったら、来年はもっと多くの高校生がきっとやってくる。きみらはパイオニアとしてものすごく重要な役割を担うんだよ。」
 
結果として、高校生役にまわった学生たちもその役割を全うしてくれました(立教生はこういう時、その気になると「なりきる」ことがとても上手です)。
 
チームの目標が「良い」ものとなるためには、それぞれのメンバーにとってそれが意味を持つ必要があります。ぱっと見ただけでその意味が分かるようなエキサイティングな目標を立てることも大事です。
 一方、上のケースのように「その人個人が果たす役割(=個人の目標)の意味づけをする」ことも、しばしば必要になります。それによってことで、その人に「見えている景色を変える」ことができます。ちょっと前に書いた「お母さんが家族を頼るようにする」という事例もそうでした。
おかげさまで今はこの立教経営学部1Day Passportも多くの高校生に参加してもらえるようになりました。一方、その様子を参観いただくことも可能です。詳細はこちらになります。興味のある方は、良かったらいらしてください。

良い目標は「見えている景色を変えてしまう」その1

きのうは「他者のリーダーシップ開発」のクラスで、上のような話をしました。「目標設定・共有」はリーダーシップ行動の最小三要素の一つと言われるほど大事なのですが、意外とぴんと来ている度合いが弱い、という問題意識を持っていたためです。

例えば(リーダーシップの例ではありませんが)、Aさんは美容と健康のために毎日ジョギングしよう、と思っています。でも、なかなか続かないし、けっこう苦痛。そこで何か目標が欲しいな、と考えました。

月間100キロ? タイムの短縮? それとも走れる距離を伸ばす? どれも目標ですけど、走るのが別に好きなわけではないAさんは、あまりそそられないなあ、と思いました。

ところがある日Aさんは、ホノルルマラソンに参加した人の体験談を読んで「自分も出たいな」と思い始めました。別に走ることが好きだったわけではないのに「42.195キロ走り切れたら、やりきれる自分に自信がつきそう」「応援とかあって、普段走れないところで走れておもしろいかも」「どうせハワイ行きたいし」。やってみようか!

そう決意すると、これまでやらなきゃと思いつつ、さぼってばかりいた毎日のジョギングが全然違って見えて来ました。苦痛だけどやらなきゃならないことではなく、ぜひたどりつきたいホノルルマラソンのゴールへの、重要なステップに見えて来たんです。

そう、「ホノルルマラソンに出る」という自分にとって魅力的な目標が出来た結果、「見えている景色が変わって来た」わけです。

「言われないとやらない、自分で考えない」脱却に不可欠なもの

大学とか教育とかに限らず、何かを絶対やって欲しい、と思うと、「やらないとまずいことになる」という手をとりがちです。「3回欠席すると落第」とか。笑

人間には弱さがありますから、こういう強制力も必要だろうとは思います。僕自身「やりたい仕事」であっても大変だと、期限が細かく設定されているからなんとかやっている、とか時々なります。ぶつくさ言いながらなんとかクリアしていって最後まで到達し、やっぱりやってよかったな、と思うという。笑

ただ、この方策の根底にある「人は強制されないとやらない」という考え方だけで走っていると、やがて壁にぶつかります。「言われないとやらない」「自分で考えない」。「だからなかなか成長しない」、、、

ムチだけでなくアメを出しても、一緒です。アメがなければやらない。アメの分しかやらない。楽してアメをもらう方法だけは考える。笑

そういう状況を超えて「おもしろいからやる」「それそのものに価値を感じるからやる」「大変でも、がんばると成長できるからやる」となって欲しいと思うのですが、そのためには、何が必要なのか?

「体験」は大事ですよね。「考えてハードルを乗り越えるのっておもしろいな!」と実際に体験する、「これは確かにやる価値がある」と思う、「がんばったから成長できたんだ」と実感する。なので、そうなるように僕らは授業を設計しようとします。

でも、その時に重要なのは「人は条件が整えば必ずそう感じられるものだ」と信じることじゃないかな、と最近特に思います。

信じていないとつい「やるべきことは全てやるしかない」ように細かく課題を作ってしまいがちです。でも、だいたいそういう課題は設問がずらっと並んでいるように見えて「そそられない」し、「片付けるべきもの」にしか見えなかったりします。

むしろたった1つ「今日の学びをともだちに自慢するとしたら何を?」とかスライドに出ていた方が、量は少なくともちょっと自分で考えたものが出て来るのではないでしょうか。

「そんなもん、何もなかったよ」となったとしたら、それは授業内容/伝え方を確認し直すべきなのかもしれません。笑

こだわる人を変えるにはこだわりを使う

論理思考・選択(BL3C)の授業では時々、各人の具体的なテーマを持ちこんで、みんなで考えます。そんな中で興味深いテーマが持ちこまれました。

ある受講生のお母さんは、最近、忙しすぎて、見ていて心配になるほどなのだそう。仕事での責任が大きくなってきたのが直接の原因ですが、母親(シングルマザー)として責任感が強く、家族に家事をやらせたがらないとのこと。そこで、どうしたら家族(子どもたち)を頼れるようにできるか?というのが今回の課題でした。

学生たちはまず「子どもたちが引き受けられるようになる」というのを考えていました。確かにそれは必要です。料理など出来ること、しかるべき時にできるように家にいること、そしてやる時間や快く引き受けられる気持ちの状態にあることなどですね。

ただ、肝心のお母さんが「頼ろう」という気持ちにならないと、十分な変化は起きません。しかし、お母さんにはこだわりがあるようで、そこを変えるのはなかなか難しそうです。そこでどうするか?

きのう話したのは、ここでこそ、論理思考の「目的を押さえる」考え方が使えるということでした。世の中的に言えば「こだわる人を変えるには、こだわりを使え」という感じです。お母さんは「家事は母親の役割!」と、こだわっているわけですが、その先には「それが家族の健康と幸せな日々につながる」という目的が考えられているはずです。また、それを守るのは母親のミッションである、と考えているのでしょう。

であるなら、ここを起点にお母さんの説得をすると良さそうです。例えば「お母さんが健康でいてくれてこそ、家族は幸せな日々を過ごせるので、そのために家族が家事を分担できるようにすることがこの状況ではお母さんの大事な任務では?」と話すわけです。また、子ども達の将来まで考えれば、あらゆる家事を出来るようになっておくことが、彼らの幸せな日々につながるので、そうできるように今から家事をいろいろやらせるのもお母さんの大事なミッションである、というアプローチもあります。

このように、相手がこだわっていることがある場合、それを否定し倒す説得ではなく、提案が実はこだわっていることの本質により合うものである、と説得する手があります。

無駄な経験はない。ただし、そこから学習していれば、だけど。

最近、「ホント無駄な経験ってないな」というのを実感しています。かつて経験した、その時は「なんで自分がこんな目に…」と思っていたことが今になって活きたり、逆に経験の機会もあったのだけど他人任せにしていたことが「あの時やっておけば今もっとやりやすかったかも」と思ったりします。

「経験が活きている」と一番思うのは、修羅場と、いろいろな人と接してきたことです。簡単に言うと、これまで経験してきた修羅場のレベルまでなら、かなりてんぱっていても本質を見失わずに行けます。ぎりぎりのところで我に返るというか。特に僕は本来は想定外に弱いタイプなので、これが役に立っています。

人については、僕はけっして社交的ではないのですが、わりと深く人と関わるタイプなので、いろいろな人が「なぜそのように動くのか」を学んでいるようです。

一方で、自分のやりたいこと・得意なことに集中しがちなタイプなので、他のことは人任せになっていて、今になって「あの時やっていれば今使えたなあ」と思うことがあります。ただ、そういうことには身が入らないので、まあ仕方がないのかもしれません。

あと、経験しているだけでは足りなくて、そこから学習している必要があります。同じ間違いを繰り返す人は学習していないということでしょう。また経験した後、整理しておかないと忘れてしまいますし、応用が効きませんね。

1から10まで教えないのには理由がある

今週の「論理思考とリーダーシップ」の課題は「zipファイルで提出するように」としたのですが、zipファイルの作り方はこちらからは教えませんでした。経営学部の1年生ほぼ全員が、人に教わるか、自分で調べるかしなければならない、という状況に置かれたわけです。

これは教えるのを忘れたわけでも、いじわるをしているわけでもありません。1から10まで教えないのには、理由があります。それは、

「世の中にはそういうことはよくあるから、今から慣れておいて欲しい」

ということです。同じ理由で、論理思考の授業でありながら、言葉の使い方はけっこうアバウトです。同じことを表すのに時によって違う表現で言ったり、厳密には定義しなかったりします。

これも「世の中はそういうものだから」です。常に正確かつ同じ表現で言ってくれる上司もお客さんもめったにいません。論理思考もビジネス界では、そんな中で使わなければなりません。つまり「不完全な表現の中からでも、相手が本当に言いたいことを推測する」力が、論理思考を使う前提となったりします(この推測自体にもバリバリに論理思考を使うわけですが)。

もちろん教材においては、しっかり考えて行くと分かるようにはしますし、難しいところをやっている時はこの度合いを下げたりします。でも、実戦のアバウトさや不親切さに耐えうるようにしていくことは、欠かせないと思っています。

学生アシスタントたちがすごいことになっています

大人が驚いてしまうような彼らの活躍は今年に始まったことではないのですが、先輩たちの積み上げのおかげもあって、今年のBL1SACAは特にスゴイことになっています。僕はここ10年、こういう、かなりやっちゃう形のSAたちを見て来ていますが、ここまで出来るのかと、僕ですら驚いています。

まず、彼らの中での連携がスゴイ。チームが作られていて、教材作成、施策徹底、介入、交流・共有、高校生BL1というように分かれているのですが、その中で、それぞれが各自の強みを活かしながら連携しています。問題提起の得意な人、質問の得意な人、レスポンスがいい人、盛り上げるのが得意な人、どう伝えたら受講生に響くか考えるのが得意な人、分かりやすいスライドデザインが得意な人、みんなをまとめてプロジェクトを進行していくのが得意な人などなど。そして当然、得意があれば不得意もあるんですが、そこをお互いにカバーし合って前にどんどん進んで行きます。またそれがチーム内だけでなく、各チームが考えたことを他のチームや全体に伝えた時にもいい感じで伝わっていて、みんなでボールを前に運んで行っている感じです。

次に、個としてスゴイ、と思います。僕が提示している方向性をとても良く理解していて、どうやってそれを実現するかをしぶとく考えています。例えば、受講生に論理思考をぜひ理解して欲しいのだけど、手取り足取りやってしまっては「自分から動き出す力」「つかみとる力」を伸ばす障害になってしまう。そこで、受講生自身が取り組んだ授業外実践を例に説明する(こちらが用意した題材ではなく)とか。

3つ目に成長がスゴイと思います。彼らも最初からこういう状態だったわけではなく、むしろ、最初はのんびりしていて「そろそろ動き出さないと」とはっぱをかけていた時期もありました。面談で「自信がないのが悩みです」と言っていたり、「このレベルの理解度では受講生への説明は任せられない」と僕から言い渡された人達もいました。しかし、そこからの伸びがスゴイです。SACA統括をやっている学生たちは去年のSAなのですが「去年の自分たちよりはるかに上手に説明している」と驚くレベルになってきています。

さて、今年度のBL1のキャッチフレーズは、

思考を変える らしさを伸ばす
動かす側になる

考える力を伸ばして自分を活かし、物事を動かして行く側になろうと。

まさにそれを体現しているのがSACAたちなので、受講生にも「動かす側になる」ことのエキサイティングさが自然に伝わっていくのではと、これはいい流れだなと喜んでいます。また、ここに我々教員が自分たちの強みを活かしながら関わって行き続けると、若者とベテランの強みを活かしたリーダーシップの例にもできるな、と。^^

マニュアルで一番読んで欲しいこと

コースリーダーをやっていると、自分が作った教材で多くの人が授業をすることになります(教員&SAなので36名)。その様子を聞いていると、ティーチングノート(教材におけるマニュアル)からの読み取り度合いに、当然のことながら差が出ます。

もちろん、それぞれの持ち味を出して欲しいので、ティーチングノートに上げているのは例に過ぎません。また、一言一句そのまま行こうとすると、やはりその人の普段の言葉や話の展開の仕方そのものではないので、どこか歪んでしまいます。また、ちょっとしたことがあちこちで抜けるだけで、全体としては「なんか変」とかなりかねません。

じゃあ、どうすると良いのか。

ティーチングノート(そして似たような領域のマニュアル)で一番読んで欲しいのは、

「意図」

でしょう。

このような展開にしているのは何を起こしたいからなのか? スライドの中のある文言を太字にしているのはなぜなのか? このワークの後は全体共有を入れずその分グループワークの時間を長くしているのはなぜなのか? あえて先に教えずワークをさせて後からやり方を説明しているのはなぜなのか?

そういった意図を読み取って展開してもらえる人の場合は、その他の部分はかなりティーチングノートと違ったことをやっていたとしても、狙っていた通りの授業展開になります。

じゃあ、かなり細かいやり方まで書いているのか? 僕はかなり細かく、ほとんどセリフのように書いてしまうのですが、それはその通りにやってもらうためではなく、具体例を見て

「イメージを持ってもらう」

ためです。「こんなふうに、意義の理解→構造の理解→やり方の理解と持って行くんだ」「こういう例をこういうふうに話して理解に落とし込むんだ」とイメージからつかんでもらうための。

なので、「意図」の部分をしっかり読み込んでから、細かい例を使って展開のイメージを持ってもらい、あとはそれぞれの得意なやり方で「意図」を実現してもらえたら、と思って教材を作っています。

またこういうことは、他の仕事においても実はけっこうよく当てはまるように思います。もし誰かに「メールに/マニュアルに書いてあったでしょ。ちゃんと読んでよ!」と言われたとしたら、それは「一言一句ちゃんと読めよ」ということではなく「意図をしっかり読んで欲しい」ということかもしれません。